Krishnamurti この「条件づけ」の問題    Ver 1.2


―宗教を超えて―




精神は徹底的に条件づけられており、条件づけられていない部分などない。
で、我々の問題はこうである―
そのような精神が、みずからの手で、みずから自身を自由にすることができるだろうか。



私はある種の人生を送っています。
ある思考の形によって物事を考え、ある信念、教義、理論に従って生きています。
私はそうしたものに心の拠りどころを置いているので、
この生活様式、世界観、信念体系を乱され、揺るがされたくありません。
乱されると好ましくない精神状態―不安、動揺―が生じるので、それが厭なのです。
仮に私が、世界に関する自分の知識や信念のすべてを引き剥がされてしまったなら、
どんな事態になることでしょう。

それ故、脳細胞は一定の思考パターンを生み出し、
確実であろうとそれに固執するのです。
この確実から不確実への心の動き―それを私は「恐怖」と呼ぶのです。



我々はただ我々自身の条件づけ、過去、backgroundに従って、
知性的、あるいは感情的に反応しているに過ぎない。



思考者はいない。あるのは唯、条件づけられた思考の運動だけである。



しかし、あなたの存在全体が記憶の束以外の何ものでもないと云うことを、
したがって、あなたの思考、あなたの反応のすべてが機械的なものに過ぎないと云うことを、
実際に理解し、完全に経験することは、そんな容易なことではありません。

それは表面的な心の動きだけでなく、潜在的、無自覚的な心の動き
―人種的な印象、文化、伝統の記憶、蓄積してきた知識の全体―
にも気づいていることを意味します。
見えているものも隠れたものも、心の領域全体を掘り起こすことを意味するのです。
それは極めて骨が折れる作業です。

そして心が、単に過去の残留物であるに過ぎないなら、
それが単に、いわゆる教育やさまざまな経験によって形づくられた、
記憶、印象の束であるに過ぎないなら、
単に反復している機械であるに過ぎないなら、
そのとき、この条件づけられた領域の範囲内で生じるどんな思考も、どんな行動も、
明らかに更なる条件づけを産み出すに過ぎないでしょう。

それで心は、その限界を知って、その条件づけに気づいて、
それ自身を超え出ることができるでしょうか。

確かに、心の全体が条件づけられているということはかなり明白です。
私たちは皆、条件づけられています―伝統によって、知識によって、経験によって。

あなたが神を信じるなら、その「信じる」ことは、
ちょうど神を信じない人の「信じない」ことと同様に、
特定の条件づけの結果であることでしょう。

そこで、重要なことは、思考の領域の全体を理解すること、
そして心がそのすべてを超えて進むことができるかどうかを見出すことです。

そのすべてを超え出るためには、あなたはあなた自身を理解しなければなりません。
動機、衝動、反応、今まで教え込まれてきたものの膨大な圧力、
夢、抑制、意識的・無意識的なもののすべて―
あなたはそれらすべてを知らなければなりません。
そのときにのみ、心は全く新しい何か、
時間によって決して汚されたことのない何かを発見することができるのです。



私たちが自身を注意して調べるなら、
私たちの思考、価値感、経験、知識、信念の大部分が、
私たちの教育の、数え切れない影響の結果であることに気づくでしょう。
私たちが生きている風土、食べる食物、読む本や新聞―これら全てが心を条件づけます。
私たちの思考が常にパターンに従っていることを、私たちは見ることができます。

では、その条件づけから自由であることは可能でしょうか。
一定の溝のなかで習慣的に考える心が、そこから外へ破り出ることが。
その結果、心がパターンに従って考えず、すべての思考を超えるように。



脳が、あらゆる条件づけから解放されることが可能でしょうか。
話し手、Kは、それはできると言うのです。
それは見守ることを通してのみ可能です。
非難したり、同一化したりするのではなく、ただ、あなたの思考の動きを見守ること。
思考の、まさにその活動を見守ること。
この見守ることのなかで、脳は、それ自身の反応に対してだけでなく、
外界のあらゆるものに対して、もっとずっと鋭敏になるのです。

ひとは、
進み続ける日常生活のなかで実際に起こっていることを観察し続けなければなりません。
その見守ることが、脳を並外れて鋭く、鋭敏にするのです。
そしてこれを、とてもとても深く調べることができるなら、
その明晰さのなかに全的な自由が生じてくるのです。



それが生です。それが私たちが生きている現実です。
ときたまの喜び、束の間の快感があるかもしれません。
しかし、そのすべての背後に、恐怖、絶望、死があります。
私たちはこれらのものごとを避けることのできないものとして受け入れます。
心はそれに順応し、ゆっくりと、しかし確実に衰退してゆきます。

それゆえ本当の問題は、どうやってこのすべてを破壊することができるかです。
―世界を変えることではなく。
あなたはできません、歴史の過程は進んでいきます。
あなたは政治家が戦争することを止められません。
たぶん戦争があることでしょう―無いのを希望しますが、多分あるでしょう。
おそらく、ここでではなく、どこか気の毒な海の向こうの不幸な国において。
私たちはそれを止められません。

しかし、私たちは、社会が私たちのなかに作り上げたすべての愚かさを、
私たち自身のなかで粉々に打ち砕くことができるのです。
そして、この破壊は創造です。創造的であるものは常に破壊的です。
私は、新しい型、新しい秩序、新しい神や新しい教会の創造を話しているのではありません。
私は、創造の状態は破壊であると言っているのです。
それは振る舞いの様式、生き方の型を作り出しません。
創造的な心は型を持ちません。
一瞬一瞬、それはそれが創造したことを破壊します。
世界の問題を解決できるのはそのような心だけなのです。

それゆえ、私たちが関わっているのは、
新しいことが起こるべく、心を破壊し尽くすことなのです。
どうやって心に革命をもたらすか―革命がなければなりません、
昨日のものすべての全面的な破壊がなければなりません。
それなしに私たちが新しいものに出会うことはできないのです。



質問者:今日、私たちは世界の中で活動している、新しいイエスの波について聞きました。
例えばアメリカで若い人たちの間で、精神的なパワー、キリストがあって、
現在この地球で活動しているのでしょうか。

クリシュナムルティ:ほら、私がインドの村に、人里離れたインドの村に住んでいたなら、
私はイエスについて決して聞かなかったのではないでしょうか。
私はイエスについては何も知らないでしょうが、
しかし私の特定のイエス―クリシュナを知っているでしょう。
あるいは私がその中で育てられてきた他の何かの神格を。

それゆえ、二千年の間イエス神話に条件づけられてきたそれらの人々は、
それから逃れ、そしてそれに帰るのです。
あなたは一年の間イエスを捨て、二、三年のうちに再びそれを拾い上げるのです。
共産主義者や社会主義者になり、それを止め、それから教会に戻るのです。
あるいは新しい教団に参加するのです。

そこで、あなたはそれを注意深く見ます。
今、私たちはこのことのなかに洞察を持ちましょう。
西洋全体が宗教的概念に条件づけられています。
それは救世主、その他諸々の観念、思考、個人的崇拝に基づいています。
インドと東洋においては、人々は異なる一連のイメージ、観念、結論によって
同様に条件づけられています。
おそらく彼らは決してイエスのことを聞いたことがないでしょう。
仏教徒の世界ではイエスを考えさえしません。
それゆえ宗教的概念で条件づけられた世界の異なる部分があるのです。

そして質問者は尋ねます。
新しい精神的な目覚めがあるのでしょうか。
新しい精神的な波があるのでしょうか。

明らかに、イエスはまったく新しい波ではありません。
それは別の仕方で働いている、古い条件づけられた反応の継続です。
それはなお条件づけられた反応なのです。

私に別の言い方で述べさせて下さい。
話し手がインドに行くと、膨大な数の追従者を持つ様々なグルがいます。
そして追従者は「これは新しい波、新しい精神的な目覚めだ」と言います。
彼らは、彼らの古いグルに従っているので、それは新しくありません。
それは違った形での古いものの繰り返しです。

これがまさに世界中で起きていることなのです。
宗教的に条件づけられた心の繰り返し。
別の仕方で行動したり、しないでいたりして。
私にとっては、それはまったく精神的な目覚めではありません。
私がヒンドゥー教徒になれば、あるいはヒンドゥー教徒であれば、
私はヒンドゥー教に含まれるあらゆる曲芸をします。
そのなかに新しいものは何もありません。
私は古いがらくたを繰り返すことに戻っているのです。

新しいものは自由のなかに横たわっています、条件づけからの自由のなかに。
そのため、私はキリスト教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、
それらのいずれでもありません。
なぜなら真実が何であるか見出すためには、心は自由でなければならないからです。
何らかの教会の、何らかの救い主の、何らかの本の権威を受け入れるなら、
心は自由であることはできません。

そして新しい精神の目覚めは、世界のなかの幾らかの人が―少数でも多数でも―
この問題の全体を実際に深く調べ、
そして自分自身を完全に解放し、完全に独り立つときのみ可能です。
なぜなら、人が完全に独りあるときのみ他人と本当の関係を持つことができるからです。
そして時間を超えた、測ることを超えた「あのもの」を見出すことができるのは
―それに、ふと出会うことができるのは―そのような心のみです。

それが本当の目覚めです。
まったく新しい何かが起きます。
そしてそれはあなたの責任です。
ただここに座って、同意したり、しなかったりして、
わずかの観念を受け入れ、話し手の言うことを聞いているだけではなく。
あなたが人間として条件づけから自由であり、独り立ち、
それゆえ高潔、正直、徳のなかに生きることはあなたの責任です。
―そしてそれが新しいものです。



しかし、もし私たちにこの絶えざる調査ができるなら、
そのとき私たちはきっと、私たちの思考が全面的に条件づけられており、
その信念と主張とにまったく価値がないことを理解する地点に到るでしょう。
そして私たちがその無価値さを見るとき、いかなる苦闘もなしにそれらは滑り落ちます。
私たちの条件づけの全体が破られるのです!
少しずつではなく―それは時間を要しますが―そうではなく即座に、
条件づけの真実を直接に知覚することによって。



「あなた」とは、記憶と言葉の束である。



私が建設的、あるいは肯定的な教えを与えてこなかったと言う人がいます。
肯定的な教えを提供する人に用心しなさい。
と云うのは、彼は単に自分のパターン、自分の鋳型を与えているに過ぎないからです。



そこでは心は過去から自由です。
知識、経験の心理的蓄積、影響とから自由です。
そのとき、あなたは無垢に存在することができます。
そしてその純真無垢さのなかに大いなる喜びがあります。
それ以上大いなる喜びというものはありません。



私たちは、自身の条件づけであるに過ぎません。
私たちは信じます。
あるいは私たちは信じません。
私たちは受け入れます、恐れてるが故に。
そして「宗教」が私たちの恐怖から育ちます。
そういう訳で自分自身を知ることがとても大切なのです。



その背景に従って、その知識に従って、その伝統に従って、
日常生活のなかでどんな風に脳が働いているのか、
どんなふうにそれが反応しているのかを、
全エネルギーを注いで、鋭く、強烈に見守ることができるでしょうか。
これら、すばやい反応を見守ることのなかで、
ひとはそれがどんなに条件づけられているのかを見出すのです。



あなたが瞑想なさる前に、そこには正しい土台となるものがなければなりません。
「正しい土台」とは何でしょう。
それは、何の恐怖もない状態を意味しています。
もしそこに、明白であれ隠されたものであれ、何らか形の恐怖が存在するならば、
瞑想は最も危険なものとなります。
なぜなら、それは際限のない逃避と洗脳とをもたらすものとなるからです。



私たちは、幸福、安楽、安全、繁栄、そして特定の教条、
心が落着いて安楽でいられる信念を常に求めています。
あなた自身の心を観察するなら、
それは常に求めており、決して満足しないで、
常に何とか永久的に、永続的に満足することを望んでいることが見えるでしょう。



なぜ私たちは何かを信じたいのでしょうか。
なぜ人類の統一を信じたいのでしょうか。
私たちは統一していません、それは事実です。
なぜ現にない何かを信じたいのでしょうか。

この信念の問題全体があります。
あなたはあなたの信念を持ち、彼は彼の信念を持つ。
そして私たちは信念のために戦い、お互いに殺し合います。
しかし、一体なぜ私たちは信念を持つのでしょう。
あなたは恐れるが故に信念を持つのではないでしょうか。

信念は、分離の、暴力の一形態です。
暴力から自由であることは、人間が他人に押しつけてきたあらゆるもの―
信念、教義、儀式、私の国、あなたの国、あなたの神と私の神、
私の意見、あなたの意見、私の理想―から自由であることを意味します。
それらすべては人間のあいだに分離をもたらし、それゆえ暴力を引き起こします。
組織化された宗教は人類の統一を説いてきました。
しかし、彼らは互いにつばを掛け合いながら戦ってきたのです。



ひとは膨大な情報、膨大な知識を集めるかもしれません。
しかし、そのすべてが既に彼の精神が傾倒している信念・世界観の
更なる補強のために用いられるとしたら、いったい何の価値があるでしょうか。



私たちにとって困難なのは、自分が蓄積してきた一切のものに対して―
自分の経験、解釈、見解、結論に対して死ぬことです。
それらに対してこそ私たちは死ぬべきなのです。



このように、経験は常に「私」を強大にするのです。
あなたが経験のなかに根を降ろせば降ろすほど、一層自我は強化されるのです。
そしてこの結果として、あなたはある種の性格の強さや知識や信念の力を持つようになり、
それを他人に見せびらかすのです。



真に見ることができるのは、
膨大な経験を積みながらも経験と知識から自由な心だけである。
もしそうでないならば、
あなたが発見するものは過去に経験したことによって染められてしまうだろう。
経験とは自身の条件づけ、過去の結果であるに過ぎない。



我々は皆、我々個々の背負った特定の条件づけ、背景に従って世界を解釈し、
それを自分の好みに合うように経験する。



ひとは、その精神から既知なるものの一切をそっくり取り除かなくてはならない。
一切の過去の知識、経験の蓄積が、生きた現在に影響を及ぼすことが止まなくてはならない。



精神が、経験と知識、そしてそこから導き出された数多くの結論とから自由でないかぎり、
発見はなく、あるのはただ、いかに手直しされていようと「既知なるもの」の連続に過ぎない。
過去は常に経験を色づける。
それは更なる経験を産出し、解釈し、蓄積しながらそれ自身を強化する。
結論、信念から考えることは少しも考えないことである。



あなたは、あなたが読んできたこと、教えこまれてきたことの結果である。
そして、その条件づけにあなたの経験は従っている。
経験は、次にあなたの条件づけを強化し、洗練させたりすることだろう。
蓄積は知覚を歪める。
日々の活動の最中にある自我の、そのすばやく巧妙な反応を理解することができない。



推測は無駄であり、「見ること」がなければならない。
精神が過去の囚人であるかぎり自由はないという、
この実際の事実が刻々に体験されねばならない。



瞑想の初まりは、背景、知識、先入観、条件づけを理解することである。
この理解なしに、瞑想と呼ばれるものは、単に一種の自己催眠であるに過ぎない。



私がなすべきことは、私自身を観察すること、私自身という本を読むことです。
どうやって読みましょうか。
どうやって障害がないほど明確に観察しましょうか。
私は色眼鏡をかけているかもしれません。
私自身を見ることを妨げている、特定の偏見、特定の結論を持っているかもしれません。
そしてそれらの問いすべてが、私自身を見ることのうちに含まれているのです。



私たちは、「あるがままのもの」を観察せよと言いました。
その抵抗し、挫折し、怒っているものの全体を。
さらに私たちは、観察している道具自体をじっと見るように、
その道具自体がきれいかどうかを見出すようにと言いました。
私たちの観察は、「事実」から「見るために使う道具」へと移ったのです。
私たちはその道具がきれいかどうかを調べ、そして、きれいでないと見ます。
そのとき、どうすべきでしょうか。

英知が鋭敏になっています。
これまで、私は、「事実、あるがままのもの」を観察することにのみ関わっていました。
今、それから移って、
「見ている機械自体を、それがきれいか、きれいでないか観察しよう」と言っています。
まさにその疑問のなかに英知があります。



肯定的、否定的思考の問題を調べる前に、思考とは何かを調べましょう。
私があなたに、あなたの良く知っていることを質問するなら、返事は即座です、
考える必要はありません。
たとえば、私があなたの住所を尋ねるなら、あなたはそれに即答できます。
しかし、もっと複雑な質問がなされるなら、
躊躇があり、心は記憶の戸棚のなかに答えを探します。
それが私たちが思考と呼んでいるものです。
私が蓄積してきたあらゆる過去の記憶、知識のなかに答えを見つけようとします。
それは記憶の反応なのですが、この応答が私たちが肯定的な思考と呼ぶものです。
思考は、知識・経験としての記憶という背景なしにはあり得ません。
故に、その過程のなかに、言葉の本質的な意味で自由はありません。
「自由な思考」「思考の自由」など全くあり得ない訳なのです。
あなたは自分の意見、自分の結論を変えるかもしれません。
が、しかし、あなたが知識を拠り所にするかぎり、
あなたは実際にはまったく考えていないのです。
そのなかに思考の自由はありません。
なぜなら知識と記憶が、あなたの思考を条件づけているからです。

否定的な思考とは、見解としての知識からの自由なのかもしれません。
私たちが知っているあらゆるものは過去のものです。
私たちが「私は知っている」と言うや否や、心は現在から立ち去り、
記憶のなか、過去のなかにそれ自身を樹立してしまうのです。
それでは心は、「知らない」という状態のなかに留まることができるでしょうか。
なぜなら、そのときのみ心は調べることができるからです。
単に言葉の上でではなく、実際の事実として、
「知らない」という状態に居ることのできる心だけが、実在を自由に見ることができるのです。
しかし、その状態に留まるのはとても難しい。
と云うのも、私たちは知らないことを恐れるからです。
知識は私たちに、強さ、重要さ、安心確実さ、確乎さ、
自信を持って活動することのできる「中心」の感覚を与えてくれます。

知識を求めておらず、記憶のなかに生きておらず、
瞬間瞬間、あらゆる形の蓄積に死んでいる心。
過去のものからそれ自身を完全に空っぽにしている心。
知らないという状態にいることができるのは、そのような心だけです。

それが最高の形の思考です。
そのとき思考はまったく違った意味を持ちます。
それは、私たちが今知っているような意味では、全く考えていないかもしれません。
しかし、それは単なる思考の不在とは異質な存在の状態にあるのです。



あるものが存在し、それが認識可能であるとする。
しかし仮にも認識可能であるならば、それは既知の領域内にあることになる。



人間の精神のなかに根本的な変化がなければならないということ、
そして、この変化は完全な自由を通してのみ生じうるということを私たちは話してきました。
この「自由」という言葉は、
それが何を意味するのかを、完全に、また絶対的に理解しないかぎり、最も危険な言葉です。



それゆえ私たちが「瞑想」という言葉を用いるとき、
それは練習されるもの、方法を意味しません。
それは気づいていることを意味します。
あなたが何をしているのか、何を考えているのか、何を感じているのかに気づいていること。
何の選択もなしに気づいていること、
観察すること、学ぶこと、自分の条件づけに気づいていることを。
自分が住んでおり、育てられてきた社会によって、宗教的影響によって、
どんな風に自分が条件づけられているかに、
何の選択もなしに、歪みもなしに気づいていることを意味します。
この気づきから注意―完全に注意深くある能力が生じます。
そのとき、ものごとをそれが実際にそうであるように、歪みなしに見る自由があります。
心は混乱なく、明晰に、敏感になります。
そのような瞑想は完全に静かである心をもたらします。



宗教は、現在、それがそうであるように、
妥当性をまったく持っていない途方もない現象になってしまっています。
どうか、自分自身のなかの条件づけを観察して下さい。
判断せず、非難せずに、ただ観察するのです。
その事実に直面しなければなりません。
信じる者も信じない者も共に、
彼らの時代の文化によって、社会によって、条件づけられているのです。
それは、東洋でもまた数千年に渡ってずっと続いてきたのです。



私たちに根源的な変化をもたらすものは何でしょうか。
特定の文化的・宗教的様式、型によって条件づけられてきた心が変化をもたらすことができるでしょうか。
それともそのような心は、単にその思考のパターンを修正しているに過ぎず、
根本的な変化を夢見ているに過ぎないのでしょうか。
根本的な変化は、
ひとが育てられてきた背景全体の理解のなかにのみ生じるのではないでしょうか。

確かに、心が特定の社会、特定の教義のパターン内で作動しているかぎり、
変化はありません。
どれほど多くの苦闘をしようとも、
私たちがそのなかで生きており、そのなかに私たちが捉えられているパターンを理解しないかぎり、変化は可能ではありません。
私たちは変わることを求めて、絶え間なく苦闘し、努力してきました。
あるがままのもの(現実・実態)と、あるべきもの(理想・こうであって欲しいもの)との間の
矛盾、葛藤が熄むことはありませんでした。

私たちが自身のなかに根本的な変化をもたらそうとするなら、まず最初に、
そのなかで私たちが育てられてきた背景、
心が作動しているパターンを理解する必要があります。
私たちが、自身の、その働き方のパターン―すなわち条件づけ―を理解しないなら、
そのとき私たちは単に伝統に従っているに過ぎず、それは必然的に凡庸へと導きます。
それは必然的に心を偏らせ、鈍くします。
私たちは非常に賢く、多くのことを知っているかもしれません。
が、その内面は非常に凡庸で、空虚で、浅薄で、不十分です。
そうではないですか?

根本的な変化をもたらすためには、私たちの背景の全体を理解することが必要です。
私たちがその背景を理解するまでは、
どれほど多くの自己変革の苦闘を重ねたとしても、それはどこにも行き着かないでしょう。

背景とはどういう意味でしょうか。
背景は、伝統、私たちが受けてきた教育、理論、教義、公式、結論などから構成されています。
私たちがそのすべてから自由でないなら、
自分自身を変えるためのどんな努力も、結局は非創造的な思考を、
似たような類いの慣習や凡庸をもたらすことでしょう。
真実であるものを見出すことができるのは、
確かに、信念、理想、強制によって条件づけられた心ではなく、自由な心だけです。
私たちが「思考の限界と投影を越えた実在」と言えるものがあるかどうか見出したいなら、
心はまず初めに、信念、教義、伝統のすべてから、
心が捉えられているパターンのすべてから、自由でなければなりません。
と云うのは、発見できるのは自由な心だけであって、
特定のパターンや観念にそれ自身を適合させるため、
絶え間なく苦闘している心ではないからです。



もし、自らのなかに本質的な変化をもたらしたいなら、
社会から自由であることが本当に重要です。
それこそが本当の革命です。
それは、私たち自身がその部分である、
社会のパターン全体を理解し始めるとき生じる革命です。
私たちは社会と異なってはいません。
私たちは、即、社会なのです。
故に、私たちが社会の構造の全体を理解しないかぎり、
社会のパターンから自由ではあり得ません。
社会とは、貪欲、羨望、野心の、
そして宗教と呼ばれる恐怖に基づいた条件づけすべての、混合したものです。
彼自身の内面の羨望と野心とからだけではなく、隣人と伝統からも自由であるのは、
社会から外に踏み出した人だけです。
本当に革命的であり、本当に宗教的であるのはそのような人なのです。
そして彼だけが、私たちの取るに足らない小さな心の投影を越えた実在、
現実なるものがあるのかどうか見出すことができるのです。

私たちが背景そのものなのです!
私たちの心は、意識的にも無意識的にも、信念、知識、主張―すべて過去の結果なのです。
そのような心が、いったい自由であり得るでしょうか。
心が、この背景、この構造の全体を理解し始めるときにのみ自由があり得ます。
そのとき、心は真に宗教的であり、真に革命的です。



それを見出すために、私はどんな道具を使っているのでしょうか。
私たちは、「検閲官」として、ある文化的背景に従って構築された道具を使っています。
それが私たちの持っている唯一の道具なのです。
私たちは問題が何であるかを見出すために、その道具を使うでしょうか。
それとも、時間から生まれたものではない全く違った別の動き、別の道具があるのでしょうか。



私たちが、今、共にしようとしていることは、
事実をありのままに、非常に綿密に、非感情的に調査することです。
そして、その様に調査するためには、先入観からの自由が―
どんな条件づけ、どんな思想、どんな信念からもの自由がなければなりません。
私たちは見出すために、非常にゆっくりと、忍耐強く、
ためらいがちに探査しようとしています。
それは顕微鏡を覗いて同じものを正確に見ようとしている良い科学者たちのようなものです。
あなたが顕微鏡を覗いている研究者であるなら、
あなたは自分が見ているものを、もう一人の研究者に示し、
二人が共にそれを正確に見るようにしなければなりません。
それが私たちがしようとしていることです。
あなたの顕微鏡や話し手の顕微鏡はありません。
一つの精密な機械があるだけです。
それを通して私たちは観察し、その観察のなかで学ぼうとしているのです。
あなたの気質、あなたの条件づけ、あなた特有の信念に従って学ぶのではなく、
実際にあるものを、ただ観察し、それによって学ぶのです。
その学ぶことのなかに行為があります。
学ぶことは行為から離れていません。
私たちは精密な機械―顕微鏡―を使っていること、
そして、あなたと話し手は同じものを見なければならないことを心に留めておきましょう。



あなたはあなたの信仰を持っており、私は私の信仰を持っている。
恐怖の問題の全体を理解するとき、人は何の信仰も持ちません。



探求のなかで何かを発見するとしたならば、その発見は認識に基づいています。
認識は、過去・記憶に、あなたが既に知っているものに属します。
そうでなければ、それを認識することはできません。
このすべてが、真理を求めるこの果てしない追求に含まれています。
しかし、心が為す測定を超えているものは、認識に基づくものではありません。



大抵の人にとって、思考は単なる反応に過ぎません。
それは非創造的なものです。
「私は考えている」と言う大抵の場合、人は自分の反応に盲目的に従っているに過ぎません。
判断のある規範、ある観念を持っており、それに従っているに。
それは思考とは言えません。
反応であるに過ぎないからです。
これらの規範、これらの先入観、これら心理的な拠り所の本当の意味を見出さない限り、
本当の思考はあり得ません。



意識の内身は何だろうか。
意識と潜在意識の性向、価値感、記憶、恐怖など。
過去、隠れた原因が現在を規制する。
我々のなかに、この限定された意識にも関わらず、
条件づけられていない力、条件づけられてない何かがないだろうか。
ある、と推測することは我々の過去の条件づけの一部である。
多くの世代を通じて我々は「ある」と考え、信じ、望むように育てられてきた。
この伝統、この記憶は我々の民族的な遺産、無知の一部であるが、
単にそれを否定することは、それがあるかどうかを自分で見出すことではない。
「我々のなかに汚されていないもの、精神的な本質、無条件のものがある」と
擁護することや否定すること、信じることや信じないことは、
真実であるものの発見に際しては障害物となるに過ぎない。

条件づけられた知識は実在に対する障害である。
理解は、心のあらゆる活動の停止と共に、
心が完全に自由で、静かで、平静であるとき生じる。
切望は、常に蓄積的で、時間拘束的なものである。
目的、知識、経験、達成を求める欲望、
それに神や真実を求める欲望でさえ障害となり得る。
心は、至高の英知が存在するよう、それ自身から、
その自己創作した障害のすべてを一掃しなければならない。



私は多くの情報、知識、経験を蓄積してきました。
その蓄積が、それ自身の周りに、限定された空間を作り出しているのです。
その限定された空間のなかで、私は自分が経験してきた物事すべてと、
私の記憶すべてと―つまり、過去の一切すべてと―同一化して生きているのです。
どうやって、私はそれらから自由であれるでしょうか。
どうやって私は、拒絶そのものが爆発であるように、
完全にそれを拒絶することができるでしょうか。



信念を受け入れる動機を理解できるなら、それから自由になれるかもしれません。
私たちは、信念が人々を切り離し、混乱、葛藤、敵対を生み出していることは知っています。
それは明白な事実です。
にも関わらず、私たちは信念をなかなか手放そうとはしません。
信念を変えたり、別の信念と取り替えたりするのではなく、
生に一瞬一瞬新しく出会うために、すべての信念から自由であることは可能でしょうか。

考えてみると、信念を受け入れる理由の一つは恐怖であることが分かるでしょう。
「本当の所、自分は何ものでもない」「空虚である」という恐怖を覆い隠すための信念は、
あきらかに自分自身を理解する妨げになります。
それは自分自身を見るスクリーンとして働きます。
心がそれ自身と同一化してきた信念を持たないなら、
そのとき心は同一化なしに、あるがままにそれ自身を見ることができます。
そのとき、確かに、自分自身の理解の始まりがあります。



信念の背後にある、安全でありたいという心理的な欲求。
心は安全を求める欲望から自由であり得るでしょうか。
これが問題です。
信念という形をもって作用する欲望の過程の理解。



そのとき、「宗教」はあなたが知っているどんなものともまったく違う何かであることでしょう。
宗教は、この信念やあの信念で心を制御する、多くの馬鹿げた組織とは何の関係もありません。
それはどんな、いわゆる宗教的な社会とも全く何の関係もありません。
その反対に、
本当に宗教的な人間はそのようなどんな社会にも、どんな組織的な宗教にも属しません。
しかし、本当に宗教的であることは、
自身の条件づけ、自身の心理的状態の莫大な理解を必要とします。
神を信じ、自分自身を宗教的だと考える人と、
信じないで自分は宗教的でないと考える人との間に本質的な違いはありません。
その各々が彼が生きている社会によって条件づけられています。
そして、その条件づけから自由であるためには強烈な不満を必要とします。
心が不満で反抗しているときのみ、
単に新しい形の満足を探してるのでないときのみ、
本当に宗教的な個人が生まれ出る可能性があるのです。
そのように本当に宗教的な個人が本当の革命家なのです。
なぜなら、彼のみが、まったく異なったレベルで社会の全姿勢を変えることができるからです。
しかし、これは自分自身に対する並外れた理解を必要とします。
自己を知ることが、まずもって重要なことです。
それは真実を求めるどんな探求者にとっても絶対的に必要です。
と云うのも、私が自分自身を知らないなら、どうやって真実を探求できるでしょうか。
探求の道具は―それは私自身の心ですが―捻じ曲げられ、ゆがめられてるかもしれません。
そして心が真っ直ぐになることができるのは、自己を知ることによってのみなのです。
明晰でまっすぐな心だけが、本当であるものを踏み込んで調べることができるのです。
混乱した心は、同様に混乱したものを見つけられるだけです。
あなたはあらゆることを疑わなければなりません。
―お気に入りの信念、理想、権威、聖典を。
それは、懐疑という特定の性質がなければならないということです。
しかし、あなたの懐疑は紐に繋がれているに違いありません。
それは解き放たれなければなりません。
―心が自由に見、すばやく走ることができるように。

質問するとき、それは思いつきの表面的な質問ではなく、
あなた自身の本当の問題でなければなりません。
それは、あなた自身の何かでなければなりません。
そしてそれが正しい質問であるなら、あなたは正しい答えを得るでしょう。
なぜなら、正しい質問をするという行為そのものが、
それ自体の答えをあなたに示すからです。
それゆえ、ひとは正しい質問をしなければなりません。
そのとき、あなたの問題は他の人々の問題と違っていません。
あらゆる問題は相互に関わりあっています。
あなたが一つの問題を完全に理解したならば、
あなたは他の問題すべてをも理解したのです。
したがって、正しい質問をすることが非常に重要です。
しかし、それが間違った質問であってさえも、
間違った質問をすることのなかで、あなたは正しい質問というものを知るでしょう。
あなたは両方をしなければなりません。
そのとき私たちは、常に基本的な、現実の、正確な質問をするに至るでしょう。



私たちは結論だらけなのではないでしょうか。
そして、この背景から、私たちは判断し、生を見、評価するのです。
あなたの結論は、あなたの経験と、
社会、伝統があなたに刻み込んできた物の感じかたに基づいています。
あなたはこれらの結論から考えています。
さて、誰かがやってきて、あなたが結論・過去の経験から考えているときには、
まったく考えてはいないのだということを指摘します。



そこで質問はこうです―
心はどうやって錯覚から完全に自由であることができるでしょうか。
人はこの問いを、非常に真剣に尋ねなければなりません。
どうやって、その矛盾の状態、その混乱、歪み、
種々の欺瞞や錯覚を誘発するすべてのものを拭い去ることができるのだろうか。
これは心が完全に静かであるときにのみ起こり得ます。
なぜなら、思考のどんな動きも過去のものの動きだからです。
思考は、記憶の、蓄積された経験、知識などの反応です。
それは過去のものです。
そしてその過去のものの運動が、心、頭脳の構造のなかに存在するかぎり、
歪みがあるに違いありません。

そこで問いはこうです―
どうやって瞑想のなかで、思考がまったく不在であることができるだろうか。
思考は必要です。
生のなかで働くためには思考を使わなければなりません。
思考のなかで機能しながら生活することと、
思考からの自由との間に調和がなければなりません。
真実であるもの、見出されるべき、知覚されるべき新しいもの、
以前に作られたり為されたりしていない何かを見るためには、
心は既知のものから自由でなければなりません。
にも関わらず、人は既知のもののなかで生きなければなりません。



心が特定の信念や教義によって制限され、形づくられているかぎり、
私たちの追求は教義や信念が約束するもの以外には行きつかないでしょう。
それ自身を、教義、信念から解放する心だけが、真実であるものを見出すことができます。
文化的にだけではなく、宗教的にも、
心が解放され、自由に調べることができるようになるということは並外れて難しいことです。
この自由なしには―特に心に関する事柄においては―探求はできません。
発見できるのは、信じる心、教義を抱いた心ではありません。
しかし、特に心理的な事柄に関しては、
心がそのなかで育てられてきた観念からそれ自身を解放することは容易ではありません。
なぜなら心は、安定していたい、不安を感じないでいたい、と常に望んでいるからです。

信じる人は信じない人と同様です。
と云うのも、その双方とも、
彼らが成長してきた特定の社会によって条件づけられているからです。
深い不満があるときにのみ、
ひとは獲得してきた信念、主張、見解すべてを脇にやることができます。
確かに、真実あるいは実在は、慰めを求める人のためのものではなく、
内面に深い不満を持つ人たちのためのものです。
その深い内面の不満は、
何らかの特定の満足感によっては容易に満たされたりせず、着実に強められ、
それゆえ、教会、組織的な宗教、自身の欲望が投影してきた慰めになる観念を
冷静に捨て始めるのです。
思考によって、理性によって、疑いによって鋭くされた心だけが調べることができるのです。
そのような心は、それ自身の動き方、それ自身の背景、
それが作り出してきた価値、信念、思い込み、それがしがみついている希望に気づいています。
そして心が、それ自身の投影を越えた何かがあるのかどうかを知ることができるのは、
これらのものごとすべてが捨てられたときのみです。



心が習慣を形成する過程に非常に油断なく、注意深くあるならば、
習慣の形成から心を解放することは表面的には可能です。
しかし、問題はそんな簡単なことではありません。
無意識のレベルでの条件づけというものがあり、
その条件づけは、もっとずっと見るのが難しいからです。
反省的な考察や様々な形での自己観察を通じて、
私はヒンドゥー教徒やカソリック教徒としての条件づけから心を解放することができます。
これは明らかに必要なことです。
私が真実であるものを探し求めようとしているなら、
まず第一に、条件づけられていない心を持たなければなりません。
条件づけられた心は、常にそれ自身の観念を投影し、
そして、その観念の結果を経験しています。
しかし、そのような経験には、まったく妥当性がありません。

私たちが心の表面的な反応すべてを越えて進むことができるなら、
そのとき多分、もっとずっと深く入り込むことができるでしょう。
無意識を詳しく調べ、その条件づけのさまざまな形を見ることができるでしょうか。

私は調査の状態のなかにいなければなりません。
調査は、どんな方向づけも、動機も、強制もなしに行われなければなりません。
私が調査の動機を持つなら、その動機が私が見つけるであろうものを色づけます。
それゆえ、動機があるかぎり、本当の調査は存在しません。
しかし、私たちはたいてい何らかの種類の動機を持っているのではないでしょうか。
私たちは幸福でありたい、内面的に豊かでありたい、
神を見つけ出したい、これやあれを達成したい。

心はそれ自身から動機すべてを剥ぎ取り、調査の状態にあることができるでしょうか。
これが本当に基本的な問題点だと私は思います。
なぜなら、私たちが無意識の全体を調べることができるのは、
私たちが動機から自由であるときのみだからです。
結局、無意識は私たちが気づいていない多くの動機の貯蔵庫なのです。
恐怖、心配、人種的な残留物―そのすべてを調べるためには、
意識的な心は少なくとも動機から自由でなければなりません。
そして動機の汚れを取り除いて意識的な心を清めることでさえ、
多くの油断のなさ、観察を必要とします。
それは思考の過程の全体に気づいていること―
どんなふうに思考が突然、心に現われるのか、
あるいは、それがいったい自由であり得るのかどうかを見出すことを意味しています。
思考とは、結局、記憶に基づいたその人特有の背景の反応であるに過ぎません。
したがって、決して自由ではありません。
ひとは、非常に聡明に、かつ賢明に、論理的に考えることができるかもしれません。
しかし、その思考は条件づけの生み出したものなのです。
それで、意識的な心が無意識を詳しく調べようとするなら、
意識的な心は、確かに、動機とパターンから自由になっていなければなりません。



知識に基づいたどんな行為も、再び心を条件づけます。
知識から生まれた行為は必ず限定されています。
それにも関わらず、知識はひとの心の内容のすべてではないでしょうか。



まず、為すべき最初のことは思考に気づいていることです。
私たちの思考は過去の結果―条件づけの結果です。
それ故、思考がそれ自身を変えるために為す努力のすべてが見当違いなことです。
思考にすることができ、しなければならない唯一のことは、
それ自身の条件づけられた運動の全体に気づいていることです。

どんな形の思考であれ理解を妨げます。
単なる思考の内容の変化は理解をもたらしません。
理解は、自己への気づきと自己を知ることにより生じます。
自己を知るための他の道はありません。
自分自身の外に答えを求めるより、
むしろ最初に自分自身を理解すること、
つまり自分自身の条件づけに気づいていることが重要なのではないでしょうか。
理解は「あるがままのもの」への気づきと共に生じます。



いま、私たちの思考のすべては、私たち個有の条件づけの結果です。
それは私たちの蓄積された経験、記憶から生じます。
そのような心は明らかに自由ではありません。
思考の過程のすべてが理解され、越えられたときにのみ、自由があります。
そして、そのときのみ、新しい心、新鮮な心が生じることができるのです。



質問:偏見とは何でしょうか。
どうやって、それを本当に克服できるでしょうか。
あらゆる偏見から自由な心の状態とはどんなものでしょうか。

クリシュナムルティ:偏見を克服できるでしょうか。
何かを克服することは、それを何度も繰り返し征服することです。
偏見を本当に克服できるでしょうか。
あるいはこの克服は、単にひとつの偏見の、別のものでの置き替えに過ぎないのでしょうか。

確かに、私たちの問題は、どうやって偏見を克服するかではありません。
なぜなら、そのとき、私たちは単に置き替えを求めているに過ぎないからです。

偏見の全過程を理解することです。
偏見の包含するものは何であるか、単に言葉の上のレベルでではなく、根本的に、深く。
そのとき、偏見から自由である可能性があります。
しかし、ひとつの偏見を、あるいは種々の偏見を克服しようと努力しているなら、
そのとき、あなたは単にあなたが偏見と呼ぶ苦痛、
あなたが偏見と呼ぶ妨害物を克服しようとしているに過ぎません。

さて、偏見とはどういうことでしょうか。
どういうときに偏見からの自由があるのでしょうか。
どうやって偏見は生じるのでしょうか。

その一つは、明らかに、いわゆる教育を通してです。
歴史の本は偏見に満ち満ちています。
あらゆる宗教文学は、教え込まれた信念に満ち満ちています。
それは子供の頃から教え込まれます。
そして、その信念は偏見となります。
私はこれであり、あなたはあれである。
私はプロテスタントであり、あなたはヒンドゥー教徒である。
したがって、私の信仰とあなたの信仰は衝突します。
あなたは私を改宗させ、転向させようとします。
そして私はあなたに同じことをしようとします。
あるいは私たちは互いに「寛容」です。
あなたはあなたの信仰を保ち、私は私のを保ちます。
そうしておいて仲良くしようとします。
すなわち、私は私の偏見の要塞に住み、あなたはあなたの偏見の要塞に住みます。
そして私たちは、それぞれそれを大目に見、友達であろうとします。
それは「寛容」と呼ばれますが、本当は不寛容です。
それは友達であろうとすることの本当にもっともばかげた形です。
どうして友達になれるでしょうか。
どうして本当の愛情が持てるでしょうか。
私は私の偏見のなかに生きており、あなたはあなたの偏見のなかに生きているなら。

私たちは偏見の種々の原因を知っています。
故意に養成された無知は、
教育を通じて、環境の影響を通じて、宗教などを通じて偏見を作り出します。
そして排他的で、私たちの信仰のなかに保護されていたいという私たち自身の欲求があります。
確かに、どうやって偏見が生じるかは非常に明白です。
そしてまた、民族や国家の見地で考えるのを私たちは好みます。
なぜならそれは、人々をその個別性において見るよりも努力を要しないからです。
あなたが偏見に満ちているとき、人々を取り扱うのはより容易です。
その人たちをドイツ人、インド人、ロシヤ人、黒人、あるいは何にせよ、そう呼ぶとき、
あなたは問題を解決したと思うのです。
しかし一人一人の個人を見ることには、多大の思考、骨折りが必要です。
そして、私たちはそうしたくないので、
「さて、彼らをある名前で呼ぼう」と言い、それによって彼らを理解したと思うのです。

それで、なぜ偏見が生じるか、
どうやってそれらが自身の自己防衛のために作られるのかを私たちは知ります。
それは孤立の過程です。
憎むこと、偏見を抱くこと、限定されていることはずっと容易です。
そして、それが私たちの大部分の現状です。
あなたは、これやあれやの協会に属します。
それは偏見の一形態です。
あなたの経験が私のより優る、あるいは私のものと同じくらい良い、とあなたは信じます。
それゆえ、あなたは経験のなかに引き止められます。
こういったことすべては偏見の形、排除の形、
あなたが非常に注意深く養成してきた自己防衛の形ではないでしょうか。
どうやってそれを克服できますか。
そうするとき、あなたはそれらの置き換えを見出すでしょう。
と云うのは、あなたが偏見を持たないなら、
あなたは極度に傷つきやすく、敏感であり、ずっと多く悩むからです。
それゆえ、私たち自身を守るために壁を急いで建てます。
自己投影されたものか、あるいは他の人によって作り出されたもの、
そのどちらかを私たちは受け入れるのです。
そして偏見を克服しようとすることは、
もっと快適で、もっと教育的で、もっと洗練された形での他の防護物を見つけることです。
しかし、それらはなお偏見です。

それゆえ、偏見から自由であることは、不確実、不安定の状態のなかに生きることです。
さて、不安定とはどういうことか理解しなければなりません。
明らかに、道理に合った物理的な安全がなければなりません。
さもなければ生きることがそもそも不可能です。
しかし、その物理的な安全は、あなたが心理的安全を求めるとき否定されるのです。
そしてそれが私たちがしていることです。
私たちが、心理的に安全でありたいと、
国家主義を通じ、信念を通じ、特定の社会の形、思想、宗教を通じて望むとき、
この「確かでありたい、安全でありたい、頼れるものを持ちたい」
という心理的・内面的欲望が外部の不安定を作り出します。
そして、心が、その心理的な自己防衛反応から自由であるとき。
偏見から自由である可能性が出てきます。

「偏見から自由な心の状態とはどのようなものでしょうか」が次の質問です。
なぜあなたは知りたいのでしょうか。
あなたはそれを経験するため、それを達成すべき標準にするため、知りたいのだと思います。
あるいはあなたは、自由であるとはどういうことか、
心が自己防衛的な反応から自由であるとはどういうことか、理解したいのです。
それを見出すためには、あなたはそれを直接経験しなくてはならないのではないでしょうか。
単に私の言葉や他人の言葉を聞いているのではなく。
すなわち、あなたはあなた自身の思考と感情の過程に気づいていなければならない
のではないでしょうか。
あなたが、たまたまそれを好むときだけでなく、いつでも。

それは次のことを意味します。
すなわち、偏見から自由であるためには、
あなた自身の全体の過程についての気づきがなければなりません。
それゆえ、私たちがすることができるすべては、「今ある自分」を理解することです。
そして、私たち自身を理解するためには、
そのなかに強制のない、正当化や非難のない気づきがなければなりません。
人はどんな形の恐怖もなしに、くつろいで気づいていなければなりません。
その気づきのなかに思考と感情の運動の展開があります。
そしてそのとき、心が静かにさせられるのではなく静かなとき、
始めも終りもないものを発見する可能性があるのです。



信念というものは恐怖から生じるもっとも破壊的なものです。



神を探求している人間は本当に真剣だろうか。
もし、彼が神を知らなければ、いかにして彼を探し出すことができるだろうか。
もし、彼が自分が追求している神をすでに知っているのなら、
彼が知っているものは、単に彼が教えこまれ読んできたもの、伝統であるに過ぎない。
あるいは、それは彼の個人的経験、願望によって形作られたものであることだろう。



あなたは文化によって、伝統によって、あるいは自身の経験によって、
特定の仕方で条件づけられています。
あなたの反応はその特定の条件づけに応じてであるでしょう。
確かにそれは考えることではありません。



あなたはある条件づけを持っています。
そして、それは自動的に応答します。
しかし、あなたは自分が考えていると思うのです。
ひとが条件づけから―意識的な条件づけだけでなく、条件づけが存在する意識の多くの層から―
自由であるときのみ、考えることのなかに革命があります。
そして、その条件づけから解放されていくことが革命的な思考なのです。



もしあなたが、じっと注意深く観察するなら、
非常に素早いように見える思考の反応、動き、思考と思考とのあい間に、
思考の過程とは関係のない沈黙の瞬間があることに気づくでしょう。
その瞬間は時間に属するものではありません。
このことの発見と、それの十全なる経験が、あなたを条件づけから解放するのです。



自分の精神の作用するさまを凝視することを通して、
精神がはたして自由になれるのかどうかをひたすらに問うのです。



私は部屋に入ってきて、いろいろな服装の色、扉、窓、部屋の不釣り合いな形、光
―そのすべてを見ます。
私はそれを即座に見て、そのすべてに対する自分の反応に気づいています。
私はこれらの反応がどんなふうに生じるのか気づいており、そして自分の条件づけに気づいています。
信念というのは、恐怖から生じるもっとも破壊的なものです。
人間は恐怖と信念をなくさなければなりません。
信念が人々を分離させ、無慈悲にし、互いに憎しみ合わせ、戦争を培養するのです。



思考は常に自己防衛的であり、自己を永続させようとするものであり、
様々な経験や知識や信念に条件づけられている。





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